Q0030:けいおん!五話をみて

すいません、なにいってるかわかんないとおもいます。
とりあえずかきなぐります。


きのう、おととい?
なんだっけ、二期決まった、
えー、けいおん!!
けいおん!の第五話を拝視・拝聴した。

去年は四話の水着回で、「は、黒タイツ脱いだら終わりだろ!」
とおもって切っちゃったのだったことをおもいだした。

それで、けいおん!は結局、「ギャグ?」と「フェティシズム」しかないのではないか。
ギャグ?はぼくにはぜんぜんおもしろくない。フェティシズムも、ぼくとしては、
人間がいて、そこからフェティシズムがやってくるとそれに反応するわけで、
決して逆ではないと思うんですよ。
高橋源一郎先生に習って「誤読を恐れずふるまう」けれども、
たとえば、AV女優とかも、「あ、こいつ、うすっぺらいわ」と思えるともうどうでもいい。
人間がいてさ、で、そこに、ふっと色香を感じる、というのはあるけど、
記号だけで構成された「萌えキャラ」がいても、ぼくがそのキャラクターの、あるいは人間の、
ファンになることは絶対にありえない。
「萌える」ことはあっても、「好き」にはならない。
「萌え」ってのは反射なんだね。

やっぱり、大塚先生のいう「アトムの命題」に苦悩しなくちゃ、いいものはできないよ。
二次元に「内面」を落とし込むのって、さ、結局、「記号」、表現するセオリーの限界のなかでしかできない。そういう、このことばを使うと混乱するかもだけど「不能性」に苦しまないと、オリジナリティなんて宿らないでしょう。
「守・破・離」なんだよね。
「型」がなけりゃ新しいものなんてありえない。

キャラの内面を描くのはやっぱりいると思う。

というのがひとつ。

でも飛び飛びで観た「らき☆すた」はおもしろかったんだよね。
何が違うんだろう。それとも何も違わないのかな。

ちょっと定義があやふやなまま術語を使うけど「空気系」って、
セカイ系」から「内面」のもんだいを切り捨てた(そのぶん先鋭化した)
表現ですよね。
セカイ系」で、ウェルメイドな道具が(「これってこういうものよね」っていう
強迫的な?共感?)許されたのは、それで「内面」のもんだいに集中できる
から、っていうのはあったんじゃないかな、と思うんですよ。

そこで内面をきると、あとはホントに「萌え」と「ギャグ」しかないんじゃないか。

そいで「らき☆すた」。
空気系としてはまだ過渡期だったのかな、とおもう。
それで、空気系としての中途半端さ、まだ「物語」の残滓がいい塩梅で
配合されていたのが、反ってヒットしたのかな、と。

こないだ「キャラクターとはなにか」を読んだんですけど、
キャラの三要素は、「図象」と「」と「」。
なんだっけ?わすれちゃった。

ま、いいや。

らき☆すた」がおもしろい、とおもったのは、
結局かがみんのツンデレだけだったのかもしれない。
ツンデレってそこにいるだけで、「攻略する物語」がついて来るんだと思います。
かがみんが「バッカじゃないの!!」って言っていると、
もうそれだけでおもしろい、ような気がする。

あと、ぼくがらきすた(ほしいれるのめんどい)をおもしろいとおもい、
けいおんをあんまりおもしろくおもわないのは、
同時にニコニコをみているかどうか、というのがファクターとしてあるのでは
ないか。
ニコニコでのパロディを同時に消費することで、はじめておもしろい、
おもうようになるのかなーと。
それはひとつありそう。

ぼくはやっぱり「好き」になるような話を書いて欲しいとおもうんです。
「萌え」じゃなくてね。
伊豆の踊り子」読むと、やっぱ踊り子好きになるもん。
誰もそんなの求めてないのかな…。

でもぼくのためにおまえらがんばれ。

あー、けいおん!六話いこうで内面を描いてくれるといいなあ。
ウェルメイドな喜怒哀楽じゃなくてね。
だってそれって結局キャラの表情をみたいってだけじゃん。

文化祭の回がすごいだいじだわー。


ちょっと何言ってるかわかんないですね。
何度も同じはなしをしているとそのうち洗練されてくるのではないか
とおもいます。

とりあえずこっちに初出。なにいってるかホントにわかんないので。